曖昧な生活

生きる気力がありません

遅刻

大昔(具体的には2016/08/17付)の記事が残っていたので公開にしておきます。これが記録されている中では割と最後の思考のようなものであって、この後(夏休みくらい)に物事を語ることをあきらめたから・・・。



「遅刻」と「学校」に絡む倫理性についての考察


まず。「遅刻」は良くないことだという認識が割と一般的だと思います。

自分は高校在学中に100回以上は遅刻しました。

ただこれは自分なりの持論ありきの行動です。

「学校」は社会生活を送るためのルールも身につける場所だと言われがちだから学校への「遅刻」は批判を浴びがち。

しかし、自分の在学した自称進学校というやや特殊な体質の学校はどうでしょうか?その実態は不必要な拘束(=莫大な課題、よくわからない校則、宗教じみた熱狂を伴う国公立信仰、...)に溢れていて、およそ社会の理不尽さを学ぶべき場所だとしか言いようがない。押し付けられたものを淡々とこなす人間が大学に行って主体的に学べるとは自分には感じられなかった。
大多数の、無視公務批判的に規則を押し付けられた中学時代を過ごしてきてそのままの生徒はそれを甘んじて受け入れるケースが多かった。まあそのまま社畜になるしかないんじゃないかと自分は思いますが。まあ、これが一般的な日本人のあり方ですね。同調圧力

私は学校が大嫌いで、部活がなければおそらく半年も在学しなかったと思います。特に微温湯に浸かったほぼ全教科の授業が嫌いで、授業に出ると頭痛吐き気に見舞われる時期もそこそこありまして、私としては自分の健康のためにも一秒でも学校にいる時間を縮めたかった。これは私の主体的な道徳観だと自分は考えます。

こういう状況下で、遅刻してきた私はよくまた遅刻したのwってからかわれてました。まあ構ってもらえるだけありがたいんですがね。だが納得できない。先生にも呆れられるが、先生の立場と、私が学校嫌いの大元凶の先生に授業嫌いを伝えていなかったことを踏まえても、こうも遅刻を重ねる者がイコール単なる無法者、寝坊魔という図式が自明とされているのってやっぱり偏見が道徳よりも好奇心よりも先に働いてるんだと思う。まあそれはそうか、偏見はいわばとんぼのめがねだしね。



話を抽象化すると、我々は一般論にそぐわない、一見奇天烈に見える自分の価値観では評価しがたい行動に対して、理解しようとする前に「変なの〜w」って自分の価値観を押し付けがちでその背景は探ろうとしないよなって思うんです。無論社会の一般論はそれなりに合理的だから生き残ってるわけですし公的場面では信用のためには遅刻はすべきでないと思いますが、もしかしたら自分の世界を変えてくれる欠片はいわゆる無法者、変態から得られるかもしれない。学校は色んな言動のシュミレーションの場であるべきだと私は思うんです。そう考えると一見おかしな行動の背景を探ってみること、ひいては規則の正当性を疑うことが実は何かの解決の糸口かもしれない、まあそれはそうだけど。そんな妄想も一興であり誰かおすすめしたいな、あっでもそんな友達いないや...と思ってここに無事収まりました。なむなむ。