曖昧な生活

生きる気力がありません

希死念慮を肴に飲む酒はうまい

こんばんは。そしてさようなら。あるいは初めまして。

特に語るべきことがないので、極めて不愉快ながら一発目から自分語りをします。

私は2年ほど前から、考えを言語化することをやめ、全て自分の胃の中に押し戻してどろどろに溶かしては再吸収し続けることに決めました。なぜなら言語化することで私は自分を日に日に追い詰め、思考する能力は失われ、いわゆる「抑鬱」状態に陥った私は、そのような状況に陥れた自分自身から逃れるため、そして現在の自己を正当化するために必要なことは、何よりもまず「非言語化」だと考えたからです。

一方、現在の私は、思考すること自体を放棄し、つまらない茫然に溺れて暮らしを行うために北海道へ逃れてはや10か月、東京や京都で過ごした耐え難く無限にも感じられるような日々から決別し、まことに没生活的に昨日もつまらなくとりとめがない一日を終え、まことにどうでもいい今日を迎えています。そして、再吸収され続け腐敗しきった、誰かのいうところの「非言語的もやもや」を臓物の奥底に、さながらヘドロのようにためこんだ私は、壁に無限とも感じられる言葉を投げかけ続けた私よりもはるかに健康的に、希死念慮を抱いています。飯の味もするし酒もうまい、夜は12時間も寝て、〇大に受からなくたって存在できている、といった世界線で尚死にたがっている。このような事実は昔の私からしてみればまことに不愉快極まりないであろうと思います。

かくして、現在の私は何一つとして語るべき対象も語るべき内容ももちません。つまり、没人格的であって、現在の私が行っていることといえばクソくだらない労働、排泄、摂食、睡眠くらいのものであるような人間、一言で言えば非本質です。

ここまで書いていて早くも自我の存在*1が感じられて不愉快になってきたので切り上げます。人類は可及的速やかに滅びて頂ければと存じます。

長々と書きましたが、言葉を発することのリハビリテーションのように、毎日とは言いませんが、何かしら語るべき対象を見つけるため、自己目的行為として、言語を用いる練習をしていきたいと存じます。そこに自我の存在*2が垣間見えることは不愉快ですが、乗り越えたほうが進捗がありそうなので。なぜなら私は仮にも大学生なので、いい加減言葉を使わなければ。フリーターじゃねえんだよ。

 

次に何かしらの記事*3あるいはSNS*4でお目にかかることなしに早く死ねますように。さようなら。

*1:ただしこれはなんとなくそこにあるような気がしているにすぎない

*2:不愉快さそのもの

*3:非本質

*4:非本質そのもの